本日はトシくんのお誕生日です。38歳になりました、おめでとうございます。北海道旭川市出身。血液型A型。土曜日生まれ。本名三浦敏和(みうら・としかず)。現在一児の父。タカアンドトシで活動。
以前日テレで数回ご本人と対面したことがあります。これは「ラジかるっ」の生放送が日テレ前であったためです。元「笑っていいとも!」レギュラー。
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そのほかにはピエール・ルイ・モーペルテュイ(数学者)、ポール・ドラローシュ(画家)、徳川家茂(江戸幕府第14代征夷大将軍)、フレデリック・エイベル(化学者)、リオネル・ファイニンガー(画家)、マックス・クノール(物理学者)、ジェームズ・キャグニー、水島あやめ(脚本家・児童文学作家)、エドガー・スノー(記者)、大橋棣(元阪神)、灰山元治(元朝日軍)、フアン・アントニオ・サマランチ(IOC第7代会長)、丹波哲郎、小沢重雄、工藤栄一(映画監督)、木下秀雄、青島幸男(元都知事)、淡路恵子、田所善治郎(元国鉄スワローズ)、石井智(元TBSアナ)、C・W・ニコル(作家)、高木守道(中日監督)、藤田恒美(元TBSアナ)、峰岸徹、荒俣宏、大竹しのぶ、杉山清貴、木原実、河合じゅんじ(漫画家)、長江健次 、北村一輝、山田喜久夫(元中日・広島)、田中律子 、古坂大魔王 、岸川勇二(元西武)、牧野塁(元オリックス)、チェリーボーイ 、ヒカルド・アローナ(柔術世界王者)、KUREI(キマグレン )、新川千鶴 、姫咲ひなの 、モンロー永田 、あさみ(元カントリー娘。)、伊藤寿賀子 、鈴木葉月 、高橋夏樹 、姫ちゃん、浅田舞(フィギュアスケート)、智希 、山根万理奈、山下鈴 、倉岡生夏 、小浦愛 、中世古麻衣 、梅本まどか(SKE48 )、桜井(菊里)ひかり(元bump.y)、大川藍(アイドリング!!!20号)、泉はる、蓼沼千晶 等も本日がお誕生日です、おめでとうございます。
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故サマランチ氏(土曜日生まれ)はJR東日本の団体専用列車「シルフィード」に乗車したことがある。長野冬季五輪の招致委員会幹部が残したメモでは平成3年5月、千葉市の幕張メッセで開かれた卓球世界選手権出席で来日した故サマランチ氏に招致委が前記した「シルフィード」を用意。これは「お召し列車」と揶揄された。
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河合じゅんじ氏(金曜日生まれ)といえば、「かっとばせ!キヨハラくん」で、昭和62年から7年間「コロコロコミック」で連載。小学生を対象年齢としていたが、小学生以外でもファンが多かったとのこと。自分も既に児童でなかったのに何回か読んでいた。野球好きは幅広い年代に多く存在しているなら当然で、野球の教科書ともなっていた。
河合氏は現在なら交流戦ではないかと思われる試合を「かっとばせ!キヨハラくん」で数回描いており、交流戦実現を予言していたとも。オリックスと近鉄の二つの球団が一つになるという話しコロコロコミックで連載されていた「かっとばせ!キヨハラくん」で描いていたことがあるが、それは指摘される迄すっかり忘れていたという。
当時は実際にこのような球団が生まれると想像しておらず、当時の近鉄ではブライアント、オリックスでは石嶺や門田、松永等がおり、両者が合わさればさらに強力打線になるとか、漫画だから「笑って許せる」という発想からだったといい、実際に合併となると「まあ、客離れが進むでしょう」と語った。
平成16年6月、埼玉県所沢市にある西武ドームへ、西武ライオンズ対千葉ロッテマリーンズの試合を見に行くときの出来事。茨城県取手市に住む知り合いに西武池袋線・狭山線の西所沢駅構内で偶然会い、そのとき初めてオリックスと近鉄の合併というニュースを知った。
合併が報じられるとすぐファンが反発。9月の時点では反対運動がかなりエスカレート。球場に行くと「合併絶対反対 合併したチームの試合をわれわれは見に来ない」、「1+1=ファン不在」、「身売りで丸く収まらないかい!」などと書いた板を掲げているのをよく見かけ、ファンは必死の署名活動も。
結局は予定通り合併を行い、反対していた近鉄礒部選手会長もお手上げ。同時に「かっとばせ!キヨハラくん」のあの話と似ていると思った。同じく思っていたのは多かったと思われる。これは第10巻(平成2年)での出来事で、今日の相手はブルーブス。本来なら別々の球団に属している筈のノモにウエダ監督が「今日先発たのむで」と指示。ライアンズのモリ監督や選手は「よその球団の選手だろうが!」とウエダ監督に抗議するも他球団の選手であることを否定。その真相は話題作りのため「バッパローズとブルーブスが一緒になって戦う」というもの。名づけて「オリッ鉄バッパローブス」。二つのユニを半分にして繋げたのが新ユニ。左がバッパローズで右をブルーブスとし、帽子もヘルメットも同じくしていた。目の前に現れたのはイシミネ、カドタ、プライアント。「これは強力打線だ」とライアンズが恐れていた。
このネタは平成16年にオリックスと近鉄の合併を予言していたと「FRASH」で言われた。合併後の新球団名が決まっていなかった頃にも雑誌では「オリッ鉄」という通称がよく使われていた。
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故青島幸男氏(日曜日生まれ)といえば世界都市博覧会を中止させた男。当時既に第一次公募企業の進出中止や延期が相次いでいても絶対に失敗しないと自信を見せていたが、平成5年に立川市で開催された「TAMAらいふ21」では企業の協賛が思うように得られない状況で観客数も伸び悩んでいたことも中止の引き金に。
博覧会中止で失業者も出て「仕事返せ!」とばかりにTBSの「クイズ悪魔のささやき」に出演した人もいた。
故青島氏は故植木等氏の「スーダラ節」や故坂本九氏の「明日があるさ」の作詞者であることも有名だが、小説家としての顔もあった。後任者は石原慎太郎氏と猪瀬直樹氏と作家出身者が19年も在任。現職の舛添要一氏は「作家はもういい」と発言もした。
前記の「明日があるさ」は連続ドラマ化も映画化もされ、ドラマには故青島氏本人も出演。知事を辞めたら「進ぬ!電波少年」や「午後は○○おもいッきりテレビ」等にも出演。
石原慎太郎氏は故青島氏と同じく昭和7年生まれで作家出身という共通点もあり、「有権者の一人として青島君に一票投じた」という。
平成7年の都知事選は世界都市博覧会をどうするかが焦点。与野党相乗り候補で内閣官房副長官を長年務めた石原信雄氏の当選が有力だったが、故青島氏は開発中の臨海副都心で開催予定だった世界都市博覧会中止の公約を掲げ、知事選に無所属で立候補し、大方の予想を裏切り1,700,933票を獲得し自民、社会、公明、新党さきがけ相乗り推薦で推進派の石原信雄氏を破って初当選。
博覧会中止の公約が大いに効果を齎したと言え、別の候補者だった元出雲市長の岩国哲人氏や大前研一氏等6人中4人も中止を公約に掲げていた。
「国民の政党に対する不信感の表れ」と評され、都市博中止決定への異議に対し「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と一喝するも、約束を反故にしなかったのは世界都市博覧会中止の公約だけだった。
経営破綻したコスモ信用組合には結局は200億円も出してしまったことで一回公約を撤回しただけで新聞のラテ欄に記載され「4年で辞めない」と東京新聞で語っていてもカリスマ性を失ったことが4年で辞めた理由でもあった。
臨海副都心開発と二信組救済はその後も進められたため、青島氏が勇退となると皮肉にも「世界都市博覧会は開催して欲しかった」という声も。
平成7年5月31日、某報道番組のラテ欄では朝刊だと「本日決断」となっていたのが夕刊だと「中止決断」に変わっていた。「地下鉄サリン事件や阪神大震災といった不幸なニュースが相次いでいたのだからパーッと博覧会をやってもよかっただろ」とか「これから大儲けになると思っていたのに」、「青島に思い切り石を投げつけてやりたい」、「何が政治家の公約だ」と工事屋は怒りを露に。
中でも印象に残っている賛成理由は「東京ディズニーランドが年間1000万人なら都市博が半年で2000万人は無理」というもの。
中止が決定していても知らないか知っていたのかわからないが決定しても杭を打ち込むというような工事をひたすら続けていた写真も出ていた。
中止決断後は都営バスの側面にあったステッカーをすぐ撤去し銀座にあった「あと○○日」の広告にある数字も消され、都庁の東京大使というマスコットも撤去され、都市博テレカもすぐ売り切れ。
数日後、博覧会跡地を遊園地にするという話まで出たが、西武ライオンズのオーナーは当時屋外だった西武ライオンズ球場(埼玉県所沢市)は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かったため都市博跡地にドーム球場建設の案が浮上し、「ゆりかもめが助かる」と期待もされたが、移転にする地元住民の猛反発や多額の建設費用の捻出、更に西武からも「電車の利用客が減るのは困る」との意見が出たため結局は西武球場が西武ドームになった。
世界都市博覧会は、中止で約1000億円の損失と事務局側は、当時都知事に在任していた故青島氏へ伝えており、開催するかどうかの決断は平成7年5月31日迄にしなければならなくなり、5月16日、都議会の「世界都市博開催に関する特別委員会」は「都市博開催決議」を可決。
同日、青島知事宛ての小包が爆発する都庁小包爆弾事件が起き(ただし爆弾事件はオウム真理教によるもので中止問題とは無関係と後に判明)、今度は5月23日に都議会・本会議で100対23の大差で「都市博開催決議」可決。「都知事の公約は貫徹されない」という観測が広まったが、青島都知事は全国の注目を集める中で都市博中止を発表。
公約実行が困難と見ていた人々は「公約は公約でも本当に中止するとは信じられない」と衝撃。中止決断を家族や知人と相談して決めたというが、この決定を受けた故鈴木俊一元知事(故青島氏の前任者)は「首都圏での博覧会開催」という夢を潰されたことに怒りを露に「サリンをばら撒かれたようだ」と発言し各方面から非難。「間違ったやり方」と故青島氏に一喝されたが「この言葉を君に返す」、「自分なら何が有ろうともやるのに」と話した。
後に故青島氏はお詫び行脚に行くこととなるが、最後に訪れたニューヨークでは当時ニューヨーク市長だったジュリアーニ氏と初対面。彼の一言は「公約を守ったことを尊敬している」として全く怒りもしなかったといい「君と僕は同じ申年生まれ」等と会話をし、国と言語の壁を乗り越えて二人はすぐ仲良しに。
前記の故鈴木氏は昭和45年に開催された日本万国博覧会で事務総長理事を務めた経験があり、万国博会場選定において当初から故鈴木氏は首都圏開催を主張し最後迄東京に拘ったが、政府内での「東京はオリンピックをやった、その次は大阪でないとまずい」という流れに押され結局「首都圏での博覧会開催」という本人の夢は果たせぬまま。
昭和15年には東京万博が開催決定されるも、東京オリンピックとともに幻になった。そんな故鈴木氏も高齢となり、自身が知事現職中のうちに果たせなかった「首都圏での博覧会開催」をどうしても実現させたいという強い希望から最後の機会とばかりに平成5年に開催決定。以後国連や海外の46都市、国内122自治体が参加する計画が進められることに。
元々都市博の概念は「臨海開発の起爆剤」で、昭和56年の神戸ポートアイランド博覧会みたいに博覧会を契機に臨海部開発推進にあったが、バブル崩壊でオフィス需要拡大の思惑が外れ、徐々に賃料が上昇する新土地利用方式が不評だったため平成4年頃から進出内定企業の契約辞退が相次いだ。
このような背景の下、故青島氏が平成7年4月9日の都知事選に立候補し、世界都市博中止、臨海副都心開発見直し、東京協和・安全信用組合非救済を公約に。
都市博中止を公約にした故青島氏は知事当選後初めて博覧会場を訪れ、かなり準備が進んでいることに驚いたという。 中止した故青島氏だったが「(臨海開発のため)何か行事を開催する必要がある」といった発言を残し(代替行事を希望されていた)、その後都市博が中止になった臨海副都心をどう開発するか論議が繰り返されるが、都市博中止による意外な効果もあり、都市博中止が多くのマスコミで報道されると皮肉にも都民の臨海副都心の認知度は大いに高まり、臨海副都心はどんな所かという関心から平成7年11月1日に開業したゆりかもめは荒涼とした埋立地の中満員の乗客を運び、遊園地の乗り物みたいな感覚まで持たれていた。 その後ビッグサイトやフジテレビが開業し、商業施設が充実すると更に多くの観光客が訪れ、臨海副都心は当初予定したオフィス街でなくアーバンリゾートの性格を持つに至り、結局ゆりかもめの意外な好調振りが臨海部開発の見直しを阻止したといえる。
平成7年秋頃には福島県の市民団体が「都市博跡地に原発を!」という活動をしていたこともあるが、東京電力の回答は「原発は強固な地盤の上にしか造れない。埋立地では地盤が軟弱なため無理」とのこと。
博覧会中止の裏で「都市博のついでに浅草や上野に行く人も多かった筈」、「増収を期待していたのに」との声もあったが、かえって客を取られていた筈。なぜなら平成12年の「淡路花博」では逆に行楽観光施設の客を減らし、終了後の一時期も勢いが戻らず、道路は渋滞しまくりで運送会社が困り、宿泊客を当て込んで造られたホテルは予想外に客足が伸びず、終了後は閑古鳥が鳴くだけ。
平成17年の「愛・地球博」では名古屋にお金が落ちると期待されても単なる通過点になっており、結局「経済波及効果はなかった」と言ってよく、各地の博覧会で負債が今なお多く残っている。
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