Quantcast
Channel: ニューきょうの出来事
Viewing all articles
Browse latest Browse all 16630

本日は浅草仲見世記念日です。

$
0
0

ネバーランド、行ってみたい?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

(「今日は何の日~毎日が記念日~」等の記述を引用しています。)


-asakusa3


あと5日でお正月ですが、その時期に相応しい内容として本日は浅草仲見世記念日です。1885(明治18)年、東京・浅草の仲見世が新装開業。文明開化の時代に相応しく、煉瓦作りの新店舗139店が開店。東側に82、西側に57。1923年の関東大震災で倒壊したが鉄筋の建物として再建。


http://www.amusemuseum.com/


浅草にアミューズミュージアムがあるのです。知らなかったです。


本日はピーターパンの日です。1904年、イギリスの劇作家ジェームス・バリーの童話劇「ピーターパン」がロンドンで初演。ネバーランドには行きたくないですね。


そのほかの出来事


694年 持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都。

728年 聖武天皇が「金光明経」10巻ずつ計640巻を諸国に与える。

784年 桓武天皇が長岡京に遷都(京都府)。

920年 醍醐天皇の皇子・高明親王が臣籍に下り源姓を賜る。「醍醐源氏」の始まり。

1198年 源頼朝が落馬。これが元で翌年1月13日死去。

1279年 藤原爲氏が「続拾遺和歌集」撰進

1406年 足利義滿の妻・日野康子に「准母」の称号を与え、後小松天皇の母に準じる待遇とする

1831年 ダーウィンの乗った英海軍海洋測量艦ビーグル号が世界一周に出発

1890年 大阪鉄道王寺-奈良間(現関西線)開業(奈良県)

1897年 阪鶴鉄道池田(現川西池田)-宝塚間(現福知山線)開業(兵庫県)

1915年 臨時南洋群島防衛隊司令官が「南洋群島小学校規則」公布

1922年 横須賀海軍工廠で世界初の航空母艦「鳳翔」竣工(神奈川県横須賀市)

1923年 虎ノ門事件。無政府主義者の難波大助が皇太子(後の昭和天皇)の乗る車に発砲。翌年死刑判決。

1924年 北海道小樽市の国鉄手宮駅でダイナマイト爆発。死者87人。

1930年 蒋介石軍が第一次掃共戦開始

1931年 中国・瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が成立

1937年 満洲重工業設立

1944年 小磯國昭内閣が戦歿者遺児に育英費を贈ることを決定

1945年 「ブレトン・ウッズ協定」が発効。国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)発足。

1946年 第一次吉田内閣が石炭・鉄鋼を中心に増産する「傾斜生産方式」決定

1949年 オランダがインドネシアの主権を抛棄しインドネシア連邦共和国成立

1951年 法隆寺金堂壁画の模写が完成し落慶法要(奈良県)

1956年 NHKと日テレにカラーテレビ実験放送許可

1958年 「国民健康保険法」公布

1960年 第二次池田勇人内閣が「国民所得倍増計画」閣議決定

1966年 黒い霧解散。内閣発足から3週間で、汚職・腐敗事件続発により第三次佐藤内閣が国会召集の当日に衆議院を解散。

1968年 都営三田線巣鴨-志村(現高島平)間開業

1979年 アフガニスタンで親ソ連派のカルマルがクーデター。ソ連の軍事介入で首都カブールなどを制圧し政権掌握。

1980年 「国鉄再建法」公布施行

1980年 小田急7000形電車ロマンスカー「LSE」営業運転開始(神奈川県など)。

1980年 レンデルシャムの森事件。

1982年 加藤保男が厳冬のエベレストへの初の単独登頂成功。帰路消息を絶つ。

1982年 京急2000形営業運転開始(神奈川県など)。

1983年 新自由クラブと聯立して第二次中曽根内閣が発足

1985年 「祝日法」改正。祝日に挟まれた平日が休日に

1989年 将棋の羽生善治が竜王に。10代として棋界初のタイトル保持者。

1995年 東海道新幹線三島で身障害事故が発生し、新幹線開業以来初の旅客死亡事故。

1995年 名神道秦荘PA(滋賀県愛荘町)から東名道の赤塚PA(愛知県豊川市)間で日本最長記録となる154kmの渋滞発生。

1997年 新進党の党両院議員総会で解散決定。

1999年 無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律施行。

2007年 ベーナズィール・ブットー元首相暗殺。

2007年 キャラクター・ボーカル・シリーズ「鏡音リン・レン」発売。

2008年 イスラエルがロケット弾攻撃への報復としてガザ地区を空爆。後に侵攻。

2008年 愛知県犬山市を走る名鉄モンキーパークモノレール線がこの日をもって営業廃止。


toeimitaline


都営三田線は当初は浅草線規格を予定するも東武や東急から相互乗り入れの希望があり、1067mm軌間変更。馬込検車場の共用ができなくなったことから三田線には専用車両基地が必要になり新たに蓮根団地西側の用地を使用して蓮根検車場を計画に追加したが、これは志村検車場(現・志村車両検修場)の設置に計画変更。


計画について昭和39年の答申で大和町-上板橋間を取りやめて志村から東武東上線の大和町(現和光市)まで延伸並びに泉岳寺-西馬込間は浅草線の分岐線として三田線は泉岳寺駅から別線(東急泉岳寺線の路線名で予定していた)とし、桐ヶ谷駅までを途中駅を五反田のみとして延伸し、池上線を経由して田園都市線(当時・現大井町線)と接続するよう改訂するも翌年に東急は突如として三田線への乗り入れ計画を中止する意向を示してきた。これは距離的にも時間的にも乗客の利便増進に資するとの東急の判断しためで代わりに渋谷経由での乗り入れを目指す計画に変更され、泉岳寺線の計画は実現せず。


昭和43年には東武も8号線(有楽町線)に乗り入れ先を変更する旨を都交通局に通知。両社に対し都交通局は抗議を行ったが結局東急・東武の意向に押し切られた。


東武なら日比谷線を浅草経由にしなかったことが浅草の衰退を招いた影響から池袋経由を希望したためでもあった。東武や東急からすればよかったにしても逆は不幸だった。


都営三田線は7-8年後に東京地下鉄南北線とともに東急目黒線などを介して将来的には相鉄線の海老名や湘南台へ乗り入れ予定。


写真の6300形は乗り入れず、新形式車「6500形」に置き換えられるという。


神奈川東部方面線は神奈川県港北区綱島の住民が「温泉消滅」を懸念して反対。営業休止撤回に向けて署名活動を行ったが実らなかった。


「日帰り温泉」というような形で集客はできたともいわれる。


一時期都営三田線では未開業区間で回送扱いとして「形だけの相互乗り入れ」としていて通常見られない都営6300系や営団9000系の目黒行きや東急3000系の三田行き、溜池山王行きが見られた。


都営三田線はかつて埼玉県への延伸計画もあった。現在では何らかの形でJR東日本埼京線の三田線乗り入れがあってもいいと言われる。


目黒線沿線では再開発が相次ぐなど高層建築が増える。それは豊かさの象徴かもしれないが豊かさの追求よりも緑地増加やヒートアイランド現象等の対策が必要で、なってからでは遅く、住民には無改善ぶりが不評。


東京中央区等に残る復興建築、即ち大正12年の関東大震災の後に建設された耐震耐火を目的とした鉄筋及び鉄骨コンクリートの建築はこれ以上解体しないで貰いたいという声も無視。


頑丈で無骨ながら時代の文化を反映したデザインが懐かしく、復興建築が是非とも街の目印や象徴になるような建造物として残って貰わないといけないし「復興建築を学べ」という声もあり現代に残る復興建築には学校が多く、復興小学校みたいな建築物は絶対に残らないといけない。


荒川区では富士見坂が正真正銘の富士見坂でなくなった。先進国との比較では日本は景観を無視した政策を取り過ぎで他国では中高層建築増加を疑問視する声が出ながら日本では少なすぎ。


渋谷も目黒も武蔵小杉などもだが日本では高層建築が既存住宅地だけでなく各地に建てられ、住環境や景観を壊すのに新たなる高層建築建設をあまりに容認しすぎ。ヒートアイランド現象、ビル風、転落事故発生、鳥の生活権を奪うこと、災害時の安全性低下、海風の遮断、電波障害、必要以上の発展や過剰供給等も問題。


どうしても造りたいなら千葉県船橋市や市川市の東京地下鉄東西線の原木中山駅から若干離れた場所や京葉線二俣新町駅前がいい。


高所が苦手なのと高層建築はある一角だけで普通の街に相応しくなく行政は何故高層建築に固執するか疑問に思っている人もおり、先進国との比較では日本は景観を無視した政策を取り過ぎ。


市川市内等、まだまだ発展が必要な地域が多いのに矛盾で今後は老朽化と維持費の増大を待って順次削減が必要で「高層建築より緑地を」という声もあり、ほかにも金をかける必要がある地域があるのにせず、お金の使い方を誤りすぎ。


武蔵小杉では「マクドナルドが消えた」、「終の棲家を奪われた」とする声も出ている。


トミーテック ジオコレ 鉄道コレクション 東京都交通局 6000形 非冷房車 三田線 6両セッ.../トミーテック
¥9,720
Amazon.co.jp

romancecar


写真のLSE車は鉄道友の会からブルーリボン賞を貰った。


今後は阪神ジェットカーのような高加減速車両の投入や小田急博物館開館などが望まれている。


SE車の旧3000形やNSE車の3100形に引き続き連接車とし、編成長や定員はNSE車と大きく違わないようにした。


昭和52年8月には社内で検討会を開催し、昭和53年秋には特急ロマンスカーの利用者に対し、意識調査を行った。これらの検討や意識調査の結果を踏まえ、昭和54年には製作前提の設計図をまとめるため製造会社も加わる共同研究に移行。


昭和55年2月に正式発注。こうしてNSE車以来18年ぶりの新特急車として登場したのがLSE車。


である。平成30年3月の70000形GSE車導入で残る7003Fと7004Fの同年3月での引退が発表された。


小田急では昭和32年にSE車、昭和38年に前面展望席がある特急車としてNSE車が登場。


昭和45年以降だと初期に耐用年数を10年としていたSE車の老朽化が進んでいたため昭和51年からSE車の後継車として新特急車の事前調査研究を開始。当初ではSE車の後継という位置づけでNSE車を6両固定編成として、それまでNSE車が使用されていた列車に新特急車の投入案や20m級ボギー車4両編成にするという案もあり、展望室はサロン室にしたり座席を外に向けたりする案もあった。


当時にNSE車が検査入場した場合にはSE車を以前のように「はこね」などの箱根特急に使用を余儀なくされて輸送力不足もあり、新車製造ならNSE車を上回る車両を製造した上でNSE車を置き換え、捻出されたNSE車でSE車を置き換えてゆくことが望ましいと結論付けられた。


昭和50年代後半になるとSE車は「新車に道を譲る日が近い」とされながら平成3年で定期運用を終え、平成4年まで生き延びた。LSE車の6連を製造して御殿場線乗り入れ用とする計画もされたが、国鉄の財政悪化の影響もあった。


その当時、国鉄では新形特急車開発を進めていたが、その一環として通常のボギー車と連接車の比較試験を昭和57年11-12月に東海道線で行っていた。私鉄車両が国鉄の路線上で走行試験を行ったのはSE車とLSE車。沿線には多くの愛好家が撮影に訪れた。


この試験で連接車の特性が定量的に把握されたが試験結果は「ボギー車と連接車で乗り心地の差は見られず、同程度の性能」という結論だった。ただし「台車構造の差が測定結果に強く認められたため十分に違いを把握したとはいえない」ともしており、曲線の通過性能について「今後更に検討を要する」としていた。


唯一、車両ごとの振動の差が少ない点について「連接構造による車両間の拘束が強いため」と認めた。


その頃「数年後に国鉄に連接車の特急型が登場する」と予想されたが、連接車導入が見送られ、その後国鉄からJRになってからも本格的な連接車導入はない。


国鉄に試験に使用できるような連接車がなかったため国鉄の申し入れにより小田急からLSE車を貸し出すことになり、ボギー車の試験では183系が使用されたが、この車種選定の理由は「重心の高さや輪重などの数値が似通っていたから」と説明。


試験に7002編成が使用され、試験に際し、デハ7002の先頭台車と連接台車のそれぞれ新宿側の車軸を測定軸とし、大野工場で輪軸交換や測定機器の搭載を行った上で国鉄に貸し出され、昭和57年12月10日から15日にかけて東海道線上で最高速度130km/hの走行試験が行われた。この試験では指定した箇所を本則-5km/hから本則+15km/hまでの速度段で走行する際に輪重・横圧・振動・変位・騒音などを地上と車内で測定する内容だった。


TOMIX Nゲージ 小田急ロマンスカー7000形 LSE 復活旧塗装 ブランドマーク付 セッ.../トミーテック
¥18,900
Amazon.co.jp

keikyu2000


昭和57年の本日に営業運転を開始。大阪府で高山都さんが生まれたのと同年同日(月曜日生まれ)。「加藤保男が冬期エベレスト登頂に成功、帰途消息を絶つ」や日テレ系アニメ「忍者マン一平」終了も同年同日。


初回放送日は「笑っていいとも!」と同年同日だったが31年半も続いた「いいとも」と逆に僅か二か月強で終了。鉄平くん(元オリックス)と児玉美代さん(元0930)にも生まれた。


こちらも鉄道友の会からブルーリボン賞をもらっている。


2000形の先頭部デザインは「バスを思わせる大きな窓が特徴」とも言われた。これは800形開発時に案が出されながら不採用になったものに準じ、開発の折には「今度はこれで行こう」としてほかの案が一切出されずにすぐに決定したことが「鉄道ファン」1992年12月号で伝えられている。


当初「900形」を仮形式としていた。


外板塗装は赤地に窓回りが白の当時の800形の塗装を踏襲したが2000形登場後はこの塗装が当時の優等列車用とされたため誤乗防止目的から800形は赤地で窓下に白帯の他の一般通勤車と同一のものに変更。2000形も3ドア改造後にこうなったが、後々2000形にも800形にも窓回りが白という状態に戻されたものが存在。


前照灯は中央上部に1灯、側面客用扉は片引き戸方式といった従来からの伝統的京急デザインを打ち破り、前面窓下に降りて尾灯と一体化。2灯を装備した前照灯や京急としては初の採用となる両開き式の客用扉などを採用。昭和58年頃だと自分なら違和感があった。


車両前面には非貫通式で左右非対称の大型の窓ガラスを採用し、腰部で「く」の字型に折れた速度感溢れる外観とともに京急の看板として意匠が凝らされた。


車内の座席配置は2扉時代だと集団見合い式と呼ばれた方式で国内での採用例が少なく、当形式のほかにはJR東日本「成田エクスプレス」用253系(更新改造後の1-4次車)、719系、JR北海道キハ54形500番台の一部に見られる程度で本形式とほぼ同時期に製造されていた新幹線0系(2000番台および改造車)・200系普通車では3人席に集団離反形の座席配置を採用。


「バスのような座席」とも言われた。本形式なら前記の「鉄道ファン」の記事によれば背ずりが深く取れることや足下を広く取れること、プライバシーを保てること、グループ客に喜ばれることなどが集団見合い式を採用した理由だが京急では車体長が短く制限されていることから車内が狭い印象を与えないためとも言われる。


これは「お見合いシート」と俗称もされる。前記の「鉄道ファン」1992年12月号によれば1970年代後半にフランス国鉄で大量投入した優等客車「コライユ形客車」を参考にしていたとされる。


車端部はボックス式クロスシートで出入口付近に折り畳み式補助座席があり、閑散時の着席率向上に寄与。


補助椅子は運転室からのスイッチ操作で電磁ロックできる。


運転台直後は電動機の点検蓋があるためクロスシートでなくロングシート。座席は臙脂色で袖仕切は木目模様のロングシートを配置。扉付近にのみつり革を装備。改造で余剰になった座席はフリーゲージトレインの試験車に流用された。それも形状も色も同じ。


関西地区や名古屋、福岡でよく見られる転換クロスシート採用案もあったが製造費が高くなり、重量が重くなり、折り返し駅での方向転換が必要になることから転換式の採用は見送られた。


固定式としたことで2人掛部850mm、ボックスシート部1720 mmの間隔でも十分な空間は確保され、座席自体の掛け心地も適切な形状と相まって良好だった。


だが転換クロスシートは手動転換はできないが本形式の後継車である2100形で採用。だが2100形だと座席の向きを手動転換できると思って無理に転換をして自動転換の機構を破壊されたこともあり、後々「手動転換できない」という旨を示すように。


2000形も座席の向きを転換できると初期には思われていたこともあるという。


マイクロエース Nゲージ 京急2000形 4両編成 3扉 改良品 4両セット A2379 鉄道.../マイクロエース
¥18,036
Amazon.co.jp

弊ブログ発展のため↓のクリックもお願いします。


全国から注目されているサイトが大集合!日記・ブログ人気急上昇ランキング テクノラティプロフィール にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 芸能ブログへ ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 地域生活ブログへ にほんブログ村 地域生活ブログ 関東情報へ rank


Viewing all articles
Browse latest Browse all 16630

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>