(「今日は何の日~毎日が記念日~」等の記述を引用しています。)
本日は引っ越しの日です。引越専門協同組合連合会関東ブロック会が平成元年に制定。1868(明治元)年、明治天皇が京都御所から江戸城(現皇居)に入城。
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本日はさつまいもの日です。埼玉県川越市の市民団体・川越いも友の会が制定。10月は薩摩芋の旬で、江戸から川越(埼玉県)迄の距離が約13里なので薩摩芋が「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と言われていたことから。
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千葉市花見川区では総武線の幕張駅や京成千葉線の京成幕張駅近くに昆陽神社がある。青木昆陽を奉った神社で、面白いことに道路の真上にある。これは近くにあった開かずの踏切を解消する為の道路工事の際に邪魔になり、一度解体され、道路完成後に復元したため。千葉県でも、よく栽培され、習志野市等も産地。
薩摩芋は鹿児島県が有名だが、徳島県や神奈川県、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県等でも栽培されている。該当するのは神奈川県だと横須賀市や相模原市、足柄上郡松田町。埼玉県だと川越市、群馬県だと伊勢崎市、栃木県だと小山市、茨城県だと鉾田市や行方市等々。
左は「ときも」。
本日は麻酔の日です。日本麻酔科学会が制定。1804年、華岡青州が世界で初めて全身麻酔による乳癌手術を成功させた。
本日は嵐雪忌です。俳人・服部嵐雪の1707(宝永4)年の忌日。
そのほかの出来事
97年 景行天皇が小碓皇子(後の日本武尊)に熊襲討伐命じる
552年 仏教伝来。百済の聖明王から欽明天皇に釈迦如来像・経巻等が献上(538年説も)。
1652年 ブロンドの乱終結。王権拡長に反対するフランス貴族最後の叛乱を宰相マザラン鎮圧
1663年 江戸幕府が碁打ち・将棋指しを寺社奉行の管轄とする
1860年 アロー戦争で英仏軍が北京入城
1867年 薩摩藩に倒幕の密勅。翌日江戸幕府が大政奉還した為、密勅取消し。
1884年 ロンドン郊外のグリニッジ天文台を通る子午線を経度0度と制定
1903年 メジャーリーグで第1回ワールドシリーズ開催。
1905年 上田敏の訳詩集「海潮音」刊行
1908年 「戊申詔勅」発布。日露戦争後、国民が上下一致して富国強兵に努めるよう強調
1911年 徳川好敏大尉らが作った国産飛行機第1号機「臨時軍用気球研究会式1号」(会式1号)が初飛行成功
1943年 第二次大戦で聯合軍に降伏したイタリアのバドリオ政権がドイツに宣戦布告
1945年 「治安維持法」、「国家保安法」、「思想犯保護観察法」、「軍機保護法」等廃止を閣議決定
1946年 フランスで国民投票により第四共和国憲法成立
1947年 初の皇室会議が開かれ、秩父・高松・三笠の三宮家を除く11宮家51人の皇族離脱決定
1950年 政府がGHQの承認を得て解除訴願中の10090人の公職追放解除発表
1955年 左右両派に分裂していた社会党が統一し日本社会党に
1957年 三原山噴火。死傷者55人。
1958年 社会党・総評を中心に警職法改悪反対国民会議結成
1962年 世界バレーボール選手権大会で日紡貝塚チーム完全優勝
1968年 日本初の都市有線テレビ会社・日本ケーブルビジョン放送網が新宿で放送開始
1974年 サリドマイド訴訟統一原告団と被告の国・大日本製薬との和解が、裁判開始から11年ぶり成立
1975年 東京23区内の自動車の制限速度が10km下がり時速40kmに
1976年 最高裁が財田川事件で死刑判決を受けた谷口繁義の再審請求を認め、審議を高松地裁に差し戻し。1984年無罪判決(香川県)。
1977年 パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ航空615便ボーイング737型機がPFLPによってハイジャック。
1981年 潜水調査船「しんかい2000」が熊野灘で日本最深記録2008m
1984年 ソ連が巡航ミサイルの実戦配備発表
1987年 後楽園球場でパリーグ最後の公式戦(日ハム対近鉄)。
1989年 ニューヨーク株式市場で1987年のブラックマンデーに次ぐ暴落
1990年 レバノン内戦終結。
1993年 北陸新幹線糸魚川-魚津間着工(新潟県・富山県)
1994年 IRA等の合同軍事司令部とイギリス側が無期限停戦宣言。1996年2月にIRA停戦破棄通告。
1994年 大江健三郎のノーベル文学賞受賞決定。日本人8人目。
1996年 中止になった世界都市博覧会開催最終予定日。
1999年 アメリカ上院が包括的核実験禁止条約(CTBT)批准拒絶。
2010年 チリの鉱山落盤事故で地下に閉じ込められた作業員33人の地下坑道からカプセルを使っての救出が始まる(コピアポ鉱山落盤事故)。
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平成7年の都知事選は世界都市博覧会をどうするかが焦点。与野党相乗り候補で内閣官房副長官を長年務めた石原信雄氏の当選が有力だったが故青島幸男氏は開発中の臨海副都心で開催予定だった都市博中止の公約を掲げ、知事選に無所属で立候補し、大方の予想を裏切り1,700,933票を獲得し自民、社会、公明、新党さきがけ相乗り推薦で推進派の石原信雄氏を破って初当選。
博覧会中止の公約が大いに効果を齎したと言え、別の候補者だった元島根県出雲市長の岩国哲人氏や大前研一氏等6人中4人も中止を公約に掲げていた。
「国民の政党に対する不信感の表れ」と評され、都市博中止決定への異議に対し「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と一喝するも約束を反故にしなかったのは都市博中止の公約だけ。
経営破綻したコスモ信用組合には結局は200億円も出してしまったことで一回公約を撤回しただけで新聞のラテ欄に記載され「4年で辞めない」と語っていてもカリスマ性を失ったことが4年で辞めた理由でもあった。
臨海副都心開発と二信組救済はその後も進められたため、青島氏が勇退となると皮肉にも「都市博は開催して欲しかった」という声も。
平成7年5月31日、某報道番組のラテ欄では朝刊だと「本日決断」となっていたのが夕刊だと「中止決断」に変わっていた。
「地下鉄サリン事件や阪神大震災といった不幸なニュースが相次いでいたのだからパーッと博覧会をやってもよかっただろ」とか「これから大儲けになると思っていたのに」、「青島に思い切り石を投げつけてやりたい」、「何が政治家の公約だ」と工事屋は怒りを露に。
中でも印象に残っている賛成理由は「東京ディズニーランド(千葉県浦安市)が年間1000万人なら都市博が半年で2000万人は無理」というもの。
中止が決定していても知らないか知っていたのかわからないが決定しても杭を打ち込むというような工事をひたすら続けていた写真も出ていた。今だったらフジテレビ湾岸スタジオがある付近で、毎年夏に東京アイドルフェスティバルが開催される場所だったと思う。
中止決断後は都営バスの側面にあったステッカーをすぐ撤去し、銀座にあった「あと○○日」の広告にある数字も消され、都庁の東京大使も撤去され、都市博テレカもすぐ売り切れ。
数日後、博覧会跡地を遊園地にするという話まで出たが、西武ライオンズのオーナーは当時屋外だった西武ライオンズ球場(埼玉県所沢市)は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かったため都市博跡地にドーム球場建設の案が浮上し、「ゆりかもめが助かる」と期待もされたが、移転にする地元住民の猛反発や多額の建設費用の捻出、更に西武からも「電車の利用客が減るのは困る」との意見が出たため結局は西武球場が西武ドームになった。
都市博は中止で約1000億円の損失と事務局側は当時都知事に在任していた故青島氏へ伝えており、開催するかどうかの決断は平成7年5月31日迄にしなければならなくなり、5月16日、都議会の「世界都市博開催に関する特別委員会」は「都市博開催決議」を可決。
同日、青島知事宛ての小包が爆発する都庁小包爆弾事件が起きたが、事件はオウム真理教によるもので中止問題と無関係と後に判明。
開催目的は昭和56年の神戸ポートアイランド博覧会(兵庫県神戸市)みたいに博覧会を契機に臨海部開発推進にあったが、バブル崩壊でオフィス需要拡大の思惑が外れ、徐々に賃料が上昇する新土地利用方式が不評だったため平成4年頃から進出内定企業の契約辞退が相次いだ。
故鈴木俊一氏は昭和15年にオリンピックとともに東京での万博開催が幻になったこともあり、その後も都内で万博開催を訴えていたが実らなかったことも都市博開催に繫がった。平成6年末には実物のエンデバーを展示しようと言い出したこともある。
故青島は平成7年4月9日の都知事選に立候補し、世界都市博中止、臨海副都心開発見直し、東京協和・安全信用組合非救済を公約に。
だが20年以上も前なら発展の見込みはないと思っていたら逆の結果に。
都市博中止を公約にした故青島氏は知事当選後初めて博覧会場を訪れ、かなり準備が進んでいることに驚いたという。
中止した故青島氏だったが「(臨海開発のため)何か行事を開催する必要がある」といった発言を残していた。それは代替行事を希望されていたため。
その後都市博が中止になった臨海副都心をどう開発するか論議が繰り返されるが、都市博中止による意外な効果もあり、都市博中止が多くのマスコミで報道されると皮肉にも都民の臨海副都心の認知度は大いに高まり、臨海副都心はどんな所かという関心から平成7年11月1日に開業したゆりかもめは荒涼とした埋立地の中満員の乗客を運び、遊園地の乗り物みたいな感覚まで持たれていた。
その後ビッグサイトやフジテレビが開業し、商業施設が充実すると更に多くの観光客が訪れ、臨海副都心は当初予定したオフィス街でなくアーバンリゾートの性格を持つに至り、結局ゆりかもめの意外な好調振りが臨海部開発の見直しを阻止したといえる。
平成7年秋頃には福島県の市民団体が「都市博跡地に原発を!」という活動をしていたこともあるが東京電力の回答は「原発は強固な地盤の上にしか造れない。埋立地では地盤が軟弱なため無理」とのこと。
博覧会中止の裏で「都市博のついでに浅草や上野に行く人も多かった筈」、「増収を期待していたのに」との声もあったが、かえって客を取られていた筈。何故なら平成12年の「淡路花博」(兵庫県)では逆に行楽観光施設の客を減らし、終了後の一時期も勢いが戻らず、道路は渋滞しまくりで運送会社が困り、宿泊客を当て込んで造られたホテルは予想外に客足が伸びず、終了後は閑古鳥が鳴くだけ。
平成17年の「愛・地球博」(愛知県)では名古屋市内にお金が落ちると期待されても単なる通過点になっており、結局「経済波及効果はなかった」と言って良く、各地の博覧会で負債が今なお多く残っている。
今度は大阪府大阪市で万博を開催しようとしていて、福祉など二の次としており、顰蹙を買っている。
当時既に第一次公募企業の進出中止や延期が相次いでいても絶対に失敗しないと自信を見せていたが平成5年に立川市で開催された「TAMAらいふ21」では企業の協賛が思うように得られない状況で観客数も伸び悩んでいたことも中止の引き金に。
博覧会中止で失業者も出て「仕事返せ!」とばかりにTBSの「クイズ悪魔のささやき」に出演した人も。
故青島氏は故植木等氏の「スーダラ節」や故坂本九氏の「明日があるさ」の作詞者であることも有名だが小説家としての顔もあった。
後任者は石原慎太郎氏と猪瀬直樹氏と作家出身者が19年も在任。猪瀬氏の後任舛添要一氏は「作家はもういい」と発言もした。
前記の「明日があるさ」は連続ドラマ化も映画化もされ、ドラマには故青島氏本人も出演。知事を辞めたら「進ぬ!電波少年」や「午後は○○おもいッきりテレビ」等にも出演。
石原慎太郎氏は故青島氏と同じく昭和7年生まれで作家出身という共通点もあり、「有権者の一人として青島君に一票投じた」という。
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大江健三郎氏は小学生の頃に父親を亡くしているが、母親は平成の頃まで生きていた。ノーベル賞を受賞するという約束は果たせても、ちょっと違っていたらしい。
愛媛県喜多郡内子町出身。ノーベル賞を受賞した頃、神田等の古本屋では客の目立つ所に、売れるようにしていたが、逆に大江氏の著書は売れず、逆に「高く買い取ってくれ」という声が出てきたという。
彼はチャレンジャー事故について「治療塔」では「宇宙意志からの警告」と表現。
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