平成10年に撮影。場所は神奈川県川崎市多摩区。区間は和泉多摩川-登戸間であり左が登戸。
本で見て「一度はここで撮影してみたい」と思って仕事がない日を選んでわざわざここまで行った。
現在は複々線化工事で雰囲気が大分変化しているはずだ。
- 鉄道まるわかり002 小田急電鉄のすべて/天夢人
- ¥1,728
- Amazon.co.jp
戦後間もない頃、小田急の電車は埼玉県内乗り入れの可能性もあった。
下北沢で小田急線小田原線と京王井の頭線が改札なしで乗り換えがかつては可能だった。これは小田急線と井の頭線が昭和15年から23年まで同一社線だった名残。
大東急成立前だと小田急で京王と無関係だったのに大東急分割後に井の頭線が京王に移ったのは経営基盤強化のためで井の頭線の大半の区間と大半の駅が京王線より北側にあり、京王線と井の頭線の沿線地域は重複率が高かったことも影響した。
京王100年の歴史において最大の功労者は当初だと小田急寄りの帝都電鉄出身で京王とは何もゆかりがなかった筈の井上定雄と言われている。彼が井の頭線を京王管轄にする案を出したため。
小田急線は平成25年3月23日から複々線化工事の一環で下北沢付近が地下になった。本来なら井の頭線の上を越えるつもりが周辺住民の反対で地下にする羽目になり下北沢の前後に急勾配ができることが問題だったが周辺住民の意地が張りすぎたのか、小田急が用地買収に取り掛かる際に住民への態度が悪かったからなのか、小田急の運が悪かったからなのかわからないが小田急は不可能とされながら住民の要求に折れる形に。
井の頭線の上を越えるようにするつもりだったのは隣にある東北沢と世田谷代田の両駅が下北沢よりも高い位置にあるため。
仲間からの情報によると30000形(EXE)が平成25年に引退するとされたが嘘だった。理由としては下北沢付近が地下になるため対応出来ないと言う事で20000形(RSE)も同時引退と話されたが20000形は既に引退。
問題になるのは小田急が深い位置に来たことで深夜にマラソン大会が開かれると揶揄されている。
4000形は現在だとJR東日本常磐線へも乗り入れ、茨城県取手市にも顔を出した。これは千代田線の車両は常磐線も小田急線も走れてもJR東日本の車両は小田急を走れず、逆も不可能なことは常磐緩行線で輸送力増強がしにくい問題を抱えていたことによる。
20000形も同時引退と話されたが20000形は既に引退して山梨県の富士急行に移籍したのはご周知の通りで昭和50年代後半までも通勤車が富士急に移籍し、歴史は繰り返された。
長野県の長野電鉄へは10000形が移籍。
小田原線は新宿-小田原間が82㎞もある。80㎞もの距離なら本当は五月雨式に開業が当たり前だが設立から4年後の昭和2年4月1日、新宿-小田原間全線を一気に開業させた。
当初から木造電車を使わなかった等近代的で日本映画の主題歌第一号となった「東京行進曲」(作詞西條八十・昭和4年)に当時急速に発展していた新宿の代名詞の一つとして「いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞があり、その部分は検閲で伏せ字になった経緯もあるが当時から小田急という名は浸透していた。
弊ブログ発展のため↓のクリックもお願いします。